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畳もろもろご紹介

2006.6.9

【畳もろもろ知識集】備後表2 藩の特産へ厳しい統制(2005/06/09)

2005年6月5日 中国新聞 福山・尾道圏 備後史ノススメより引用

今沼隈半島を中心とする地域から織り成す畳表は、備後表と呼ばれ、艶があり、脱色が少なく、耐久性に優れた高級品として全国に知られています。

江戸時代の備後表は、大別して3種類ありました。
まず、福島正則が慶長七年 幕府に三千百枚の畳表を献上したことに始まる献上表。
次に、水野勝成が福山藩に入封の翌年、幕府が禄高不足を補う為、九千枚を買い上げたことに始まる御用表。それに一般市場で売買された商用表です。

福山藩は、畳表を藩の特産品とする為、様々な政策を打ち出しました。
福島氏は、献上表の検査役を置き、「弐十五疵の事」と言う不良品選別基準を設け、品質の向上を図りました。続く水野氏は、良質の献上表を確保するため、元和八年(一六二二)「九箇条の御定の事」を定めました。
それによりますと、献上表を織る村々へ藤草銀と呼ぶ肥料代を無利子で貸与するなどの保護を行ったようです。

一方、職人が他領の者と縁組をすることを禁じ、技術が漏れる事を防いだり、献上表を婦人に織らせてはいけないなど厳しい統制を行いました。

一般市場に出回る商用表は、献上表や御用表納入後に取引され、量もはるかに多かったのですが、これに掛ける運上銀は、藩の財政にとって重要な意味があり、抜け売りの防止も厳しく行われました。

さて、備後表を生産する農民の生活はというと「備後の寒田植」の言葉通り、原料の藺草の植え付けは、氷の張る寒い時期で、多くの肥料と手間をかけ、その刈り取りと乾燥は梅雨明けを待っての暑い中での長時間の作業でした。
町内に残る長谷川家文書によると、「寒暑の手間、職人は大いに心労仕候」とあります。同じ文書には、「急に献上表が必要となった時は、耕作を捨置、昼夜を問わず織り上げる」と記しています。

江戸時代の初めまでは、苦労して収穫した藺草のうち、長い藺草だけを使い、短い藺草は捨てていました。
下山南に住む長谷川新右衛門は、短い藺草で畳表が織れないかと織り機の改良に努め、ついに、短い藺草を畳表の中央で交叉さす「中継表」を考案しました。これにより生産量は急速に増大した事は有名です。

その後も織機の改良が続けられ、備後の織機は、他地方のものより優れており、良質の畳表が織れる構造を持つ優れた織機となりました。
備後表の名声は、藩の施策によるところが大であるが、農民の日々の努力と高い織りの技術に支えられているといっても過言ではありません。
しかし、昭和三十年代以降、生活様式の変化や敷物の多様化などにより、生産量は激減しています。

今後、高級品として伝統をどのように守っていくかが課題です。

 

畳表の寸法に不正のある商事を取り締まる定万治元年(1658) 福山藩が畳表の品質を高めて、領外市場における信用を保持する為定めた法令。
畳表の寸法に不正のある商事を取り締まる定 万治元年(1658)
福山藩が畳表の品質を高めて、領外市場における信用を保持する為定めた法令。

 

【畳もろもろ知識集】備後表 他産に比べ 2倍の値段(2005/06/02)

2005年5月29日 中国新聞 福山・尾道圏 備後史ノススメより一部引用

今回は、備後表の“良さ”が広く知られるようになった経緯をご紹介します。備後表の“良さ”を再認識して下されば幸いです。

古墳時代。畳が寝具として使用されていた事が大阪府八尾市の美園古墳出土の家形埴輪には、内部に寝台が設けられ、上敷きに畳の目が付いていることからわかっています。
平安時代になると、寝殿造りが成立し、畳は、座具や寝具として板敷きの一部に敷く置畳として普及しました。鎌倉時代も必要な場所に敷く置畳でした。
ところが、鎌倉時代の終わり頃より部屋全体に敷き詰める敷畳に変わり、室町時代には、建築様式が建具で間仕切りする書院造りとなり、敷畳が普及しました。

高級品として知られる備後畳が登場するのも、実はこのころからです。
奈良興福寺の子院である「大乗院」の「寺社雑記若宮祭田楽記」の長禄四年(1460年)の記録に「備後莚十枚 代一貫二百文 百二十文宛、莚十枚代五百文」とある。莚とあるのは、畳表を示すものと考えられており、「備後」の地名を付し他産のものとはっきり区別しています。
さらに代金は、備後産は、十枚一貫二百文に対し、産地名のないものは、十枚五百文とあり、備後産の畳表が二倍以上の値段となっていたことがわかります。これにより備後産の商品価値の高さを知ることができます。

このように、備後表は、室町時代末から安土桃山時代にかけて、中央に進出し、当時の支配者や著名人たちの建物に敷かれ、そこに出入りする人々の目に触れることとなりました。このことで、備後表の良さが広く知られるようになり、最終的には江戸時代特産品としての基礎を確立したのです。

 

備後表が、他産に比べ2倍以上の値段だったことを示す 長禄4年(1460)の「大乗院寺社雑記若宮祭田楽記」
備後表が、他産に比べ2倍以上の値段だったことを示す長禄4年(1460)の「大乗院寺社雑記若宮祭田楽記」

 

【畳もろもろ知識集】備後 レポート ~野崎家旧宅 ! レポート~(2004/07/31)

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野崎家旧宅
野崎家旧宅の中座敷と表書院には、備後産の中継表が使われています。
畳床などに残された記録によると、創建当時から使われていた畳が明治30年ごろに表替えされ、
大正時代になって裏返されたもので、実に100年以上の使用に耐えてきたことになります。
このたび、新びんご中継表の開発に伴い、100畳が張り替えられました。中継表は、藺草の太くて
色合いの良い部分だけを製織することから、大変丈夫で長持ちする他、心地よい感触もあります。
弊社でも新びんご中継表はご予約を受けつけております。
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沿 革

野崎家は日本の塩田王と呼ばれた野崎武左衛門(のざきぶざえもん)がその気宇に合わせて天保から嘉永年間に次々と築いていった民家です。
敷地面積約3000坪・建物延床面積約1000坪あります。長屋門を入ると、濃い緑を背景とした本瓦葺の母屋群が軒を連ねて美しく、これに並んで威風堂々と軒を連ねる土蔵群があります。

中門を入ると表書院の前庭となりますが、庭園は枯山水で、児島の豊富な石材を生かして石組に幽玄の風情を表現しています。

庭には各種の常緑樹が林立し、茶室を結ぶ露地の傍には三尊石(さんぞんせき)や陰陽石が点在し、設立者の美意識が遺憾なく発揮されています。

総じて、建物と庭園がこれほど創建のままに保存されているところは稀有であり、山陽道の代表的民家と言えるでしょう。

昭和52年に岡山県指定史跡となりました。

(郷土史家 角田直一監修)

 

お成門・長屋門

お成門・長屋門お成門は、貴賓の出入口で、表玄関から表書院へと通じており、通常は閉ざされています。
長屋門の石垣は、鉢巻積(はちまきづみ)の工法によるもので、7段の石段を上がると右に桃座敷、左に南座敷があります。
このような門造りは、江戸時代の大庄屋建築のなかでも特に壮麗であり、天保9年(1838年)に竣工しています。

 

庭 園

庭 園野崎家の庭園は、江戸末期にできた枯山水の庭園であります。この庭園は表書院からの眺めに中心を置いたもので、南東の隅には築山を設けて三尊石を立て陰陽思想を表現しています。

庭には、黒松・木斛(もっこく)・樅(もみ)・楓・槙・杉・山桃・姥女樫(うばめがし)などが植えられ四季の移つろいを楽しませてくれます。
特に、さつきの萌え出る晩春ともなれば庭の生命が躍動し、訪れる人の目を楽しませてくれます。

 

中座敷

中座敷母屋(中座敷・向座敷)
天保4年の建築で南北に23間(約42メートル)あります。
『塩田王』野崎武左衛門が住まいの中心としていた、総奥行き23間の中座敷。障子、襖、廊下、窓など、当時の姿を保ち高雅な趣を漂わせています。

 

草 庵 茶 室

草 庵 茶 室庭内には、観曙亭(かんしょてい)・容膝亭(ようしつてい)・臨池亭(りんちてい)の3席の茶室があります。

観曙亭は、庭の築山にある2畳台目の茶室で、杉材を用いて建てられています。天保14年8月13日、ここで月見の宴を催した記録があります。

容膝亭は、裏千家の名席『又隠(ゆういん)』を写したもので、細部まで正しく模していますが、唯一躙口(にじりぐち)の位置だけが違っています。

容膝亭と命名したのは、大徳寺の国師・松月(天保9年79歳で没す)であります。
容膝亭から露地を伝って臨池亭に至る途中に塩釜明神があり、その隣の築山に蓬莱山と三尊石を置き、枯滝から流れ出た水は石橋を潜り、滝となって大池に注いでいます。

石は島、苔は池を象徴します。その池の傍にありますのが臨池亭で、世に知られた茶室であります。

これ等の3席は、その頃野崎家への出入りのあった速水流家元の指導によるものと伝えられています。

 
交 通 機 関 JR児島駅から、徒歩15分
児島インターチェンジから、車で10分です。
公 開 時 間 J9:00~16:30(閉門17:00)
休  館  日 毎週月曜日(但し、祝祭日の時は翌日)
年末年始(12月25日~1月1日)
入 館 料 大人500円 小中学生300円
団体割引30名様以上2割引
駐 車 料 無料
アクセスマップ

 

【畳もろもろ知識集】岡山県 早島町の紹介(2004/07/31)

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◆岡山県早島町の紹介・江戸時代畳表が特産品でした!
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早島はその昔、吉備の穴海と呼ばれる瀬戸の児島に浮かぶ一つの島でした。
今から400年ほど前、戦国大名の宇喜多秀家によって初めて干拓の堤防が干潟に築かれ、早島は児島湾干拓の先がけのまちとなりました。

江戸時代、早島は旗本戸川家3000石の陣屋が置かれ、干拓の事業も村人たちによって営々と続けられていきました。
そして、この新たな大地に人々はい草を植え、い草で織られた畳表は早島の特産品として全国に出荷されました。

江戸時代のおわり、四国讃岐の金毘羅詣でが流行すると、金毘羅往来と呼ばれた四国への道沿いにある早島は多くの旅人でにぎわい、まちのいたるところに旅人のために道しるべや灯籠が建てられました。

干拓の槌音と畳表を織る織機の音、そして四国への旅人のざわめき、まちを歩くとどこからともなくこうした歴史の音が聞こえてくるような町です。

 

歴史民俗資料館

早島は約400年前、宇喜田開墾から干拓地を利用して、盛んにい草栽培がされるようになりました。
江戸時代には、畳表「早島表」の名で、大阪、江戸へ出荷されてから、早島はい草と畳表の町として発展しました。
早島町の伝統的産業である「い草」。
その「い草」と「い製品に関する歴史・民俗・資料を収集展示した施設です。
全国唯一のい草資料館です。

交 通 機 関 交 通/JR瀬戸大橋線(宇野線)早島駅下車、徒歩7分
公 開 時 間 午前9時~午後5時
休  館  日 12月28日~1月4日
入 館 料 大人500円 小中学生300円
団体割引30名様以上2割引

 

【畳もろもろ知識集】長谷川新右衛門 中継表の考案~備陽史~(2004/07/16)

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江戸時代に中継表を考案した長谷川新右衛門の紹介です。
商工ふくやまに平成5年6月から平成14年3月まで毎月掲載された
「人間シリーズ クローズアップ備陽史」より抜粋致しました!!
備陽史探訪の会会長 田口義之会長の執筆によるものです。
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長谷川新右衛門 ー中継表の考案ー
寒風吹き荒む冬に植付け、夏の暑いときに刈り取る。
「藺草」の栽培は福山地方の気候と風土に根差した特産物といえる。

冬といっても比較的温暖な瀬戸内沿岸、夏も雨が少なく晴れの日が多いこの地方は、刈り入れ時の降雨を最大の敵とする藺草にとって最良の気候を提供している。

備後地方における藺草を原料とする「畳表」の生産は、古く中世にさかのぼる。
早く鎌倉時代の記録に「備後莚」の名が見え、住まいに「畳」の使用が始まる室町時代になると、のちにその代名詞となった「備後表」が史料に現れる。
すなわち長禄四年(一四六〇)の『大乗院神社雑事記若宮祭田楽記』に「備後表」の名が見られ、既にこの時代、「畳表」は備後の特産品として中央に知られていた。

その起源には不明な点が多いが、戦国時代の永正年間(十五世紀初頭)にはかなり栽培されていたようである。
熊本県の記録に、同県の藺草栽培は永正二年、備後より藺苗を取り寄せたのがそのはじめとされ、また、静岡県引佐郡の藺業は同十六年、玉庵という備後沼隈郡今津生まれの僧が村民に藺草の栽培法を教えたのがはじまりと伝え、このころには備後の藺業が広く世間に知られていたことが分かる。

しかし、初期の畳表の製法にはむだな点が多かった。
すなわち、当時の畳表は「引通表」といって収穫されたい草のうち、長いもののみ使い、短いのは捨てていたのである。
これではせっかく苦労して栽培した藺草の、半分近くを捨てるこことになり生産は伸びない。
この畳表の製法に一大改良を加えて、「備後表」を名実供に備後の特産品にしたのが、長谷川新右衛門(菅野十郎左衛門ともいう)である。

別名の「管野」は、沼隈郡沼隈町山南の地名で、藺草の産地に育った彼は、早くよりこの「引通表」の改良に取り組んだ。
そして、彼の努力によって完成を見たのが、「中指表」あるいは「中継表」と呼ばれる、中継の技法である。

この技法は従来捨てていた短い藺草も、途中で継ぐことによって畳表生産に使えるようにした画期的な製畳法で、後に「備後表」が畳表の最高級品の代名詞として、全国の市場を席巻する基となった。

彼がこの技法を開発したのは天文・弘治の頃(十六世紀中頃)と伝え、その後慶長七年(一六〇二)、福島正則の代官として沼隈郡山南に入った間島美作は、いちはやくこのことを知り、新右衛門に5人持を与え、「中継表」の生産を大いに奨励した。

さらに、美作の主君福島正則も「備後表」の生産に関心を持ち、さっそくその上品三千五百枚を徳川将軍に献上した。
以後幕末までの恒例となった「献上表」のはじまりである。

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